毎日が何となく「面倒くさい」。「こんなこと、どうでもいい」。そう思いながらルーティンをこなしていませんか?
それ、ひょっとすると「事務の力」のせいかもしれません。
普段、軽視されがちな「事務」ですが、その力、侮るなかれ。
🤯 あなたの日常を縛る「事務の力」の正体
阿部公彦氏のエッセイ『事務に踊る人々』は、「事務の営み」に光を当て、現代社会の構造を再考させてくれます。
著者によると、これまでの権力は「巨大で崇高なものが喚起する恐怖や畏れなどの感情」を支えにしていました。
これに対し、事務の力を支えるのは「巨大さや激しさからはほど遠い些末さや細かさ」、つまり「面倒くささ」こそが、その力の源泉なのです。
例えば、昔の農民は「地主の取り立てが怖い」「作物が育たない冬が怖い」といった切実な心配に備えて、毎日必死に農作業をしていたでしょう。
これに比べて現代の労働者は、命の危険や寝食の心配からというよりも、「現状を抜け出すのがとにかく面倒くさい」という理由で、今のルーティンを続けている人が多いのではないでしょうか。
「面倒くささ」によって労働者が自発的に留まってくれるなら、使用者側が恐怖で縛り付けなくても労使関係が安定します。
なるほど、事務の「面倒くささ」による支配は、実に巧妙で「良くできたシステム」なんですね。
✨ 「面倒くさい」のその先! 事務の「漏れ」に潜むクリエイティビティ
たかが事務。されど事務。本書が示唆しているのは、そんな事務の底力だけではありません。
著者は、人間には事務を「面倒くさい」と思う反面、事務を愛する心もあるという、その二重性が事務の大きな特徴だと説いています。
「クソどうでもいい」、「事務なんて」と言う人ほど、実は事務が好きな人とも言えるかもしれないんです。
皆さんは、今お勤めの会社や、以前の職場で「マニュアル整備が完璧だ!」と思ったことがありますか?
私個人は、会社勤め、様々なアルバイト、家や学校での共同生活なども含めて、今のところ、完全にマニュアル化された世界には出会ったことがありません。どこのルールにも、「これはどうなの?」「じゃあこういう場合は?」と、網羅できていない「穴(漏れ)」が必ず見つかります。
著者も、人間が調査・執筆した文書に「絶対」はなく、ほぼ必然的に「漏れ」が伴うため、その手当てが必要だと説いています。
そうした既存のルールからの「漏れ」の部分をシステム化していくことこそが、仕事や家事の一番楽しいところではないかと、私は最近つくづく感じます。
「このタイミングでこうするともっと上手くいく!」と発見して、それを既存の仕組みに反映させるのは、純粋に気持ちが良いものですよね。
著者の言う「絶対」からの「漏れ」の部分こそが、人間のクリエイティビティ(創造性)の発揮どころなのかもしれません。
🕺 「面倒くささ」の支配から抜け出し、ルールの「隙間」で踊ろう!
世の中がどんどん便利になるのに、一向に仕事が減らない、面倒なことが減らないように感じるのはなぜなのでしょうか?
それは、人間が作った「絶対的な規範」から必ず発生する「漏れ」の部分で、人間の新たな営みが、次から次へと生まれているからかもしれません。
このサイクルがある限り、私たちが作る事務的なルールは、これからも細かく、そして少しずつ面倒くさいものになっていくことでしょう。
自分たちの作ったルールでがんじがらめになって、身動きが取れなくなりそうな時もあるかもしれません。
そんな時に私たちが大切にすべきなのは、数多あるルールの僅かな「隙間(漏れ)」を見つけたとき、安易に「どうでもいい」と切り捨てず、少しだけ愛着を持って向き合ってみることではないでしょうか。
「完璧」を目指し複雑化する世の中ですが、私たち自身は完璧じゃなくて大丈夫。
むしろ「完璧」じゃない部分こそ「人間らしくていいじゃん」と面白がりながら、その「隙間」で自由に踊り続けていきましょう!


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